夕立は蜜柑味
------------------------------------------------------------------------------------------
季節は初冬。まだ冬とは完全に言い切れないはずなのにこうして学校の玄関口の下駄箱前に座っているだけで
肌を露出しているところから風が通り、少しひやっとする。ワイシャツにブレザーだけで外を歩くのは背骨のあたりが
ぞくぞく震えてしまいそうで、外に出ることがなんとなく億劫だった。これからもっと寒くなるのかと思うと
自分は大丈夫なのかと疑いたくなる。視線の先にある白くて細い、おまけに長い足を見ながら
女子はあんなに足出してよく平気でいられるよな、と感心しているとその足が近づいてきて途端後ろから
頭を打ったような衝撃が走った。俺は反射的に頭を摩る。
「何見てんの。」
「…綺麗な足だなって思って」
「もっかい殴ろうか?」
「違っ、褒めてんだって!痛っ!」
必死の抗議も実を結ばず、今度は脳天を重たい鞄で貫かれた。机やロッカーの中に教科書すら入れっぱなしの俺とは
違って真面目なは参考書まで持ち帰っているらしく、その重さのせいで奥まで響くずっしりとしたものが
俺の頭の中に余韻を残した。
「誰か待ってるの?」
「いや別に。」
「帰らないの?ずっとそんなとこ居たら風邪引くんじゃない?」
「…そーだな。そろそろ帰るかな」
は上履きを足で乱暴に脱ぎ、しゃがんでそれを取ってから黒いローファーを手の高さから落とした。
そしては垂れ下がったマフラーを右手で掛け直し同じように靴を履こうとしていた俺を見てこう言った。
「丸井ってわかりやすいよね」
喜んでいい場面なのか、あるいはキレた方がいい場面なのか、突然の投げかけに対応し切れなかった俺は
頭で考えるより先に「はぁ?」という空気の抜けたような声を出していた。
するとは真顔からだんだん頬が上がり笑いを含んだ顔に変化していった。
「部活無い日って、あからさまにテンション低い。」
「…あー…そうかもな」
余程酷い顔をしていたのか、そんな風にに言われ別に否定することでもないので肯定しておいた。
声は出さなかったものの、おっさんじみた心に一人苦笑しながら重い腰をゆっくり上げた。
は息をひとつついて俺を見る。
「テニス、好きだもんねぇ。」
「好きじゃなきゃやってけねぇよ、あんなきつい練習。」
「ははっ、そりゃそうだね。」
「私立立海大付属中学校」と大袈裟な書体で書かれた門を抜けると、冷たい北風を顔面に受けて
前髪がさらわれる。薄着の自分もこりゃそろそろセーターでも着なきゃダメだなと心内で思い
掻き揚げられた髪を撫で下ろしながら、ちらりとを見る。
迷惑そうに眉根に皺を寄せて目を細める。左手で分け目どおりに分けた後、
後ろの長い髪に一度だけ手櫛を通す。そのままマフラーに包まって
俺達は家の方へ向かって、そのまま取り留めの無い話を続けた。
しばらく一緒に歩いてきても、話題は尽きなかった。
男女の間でくだらない話をここまで引っ張れるのは簡単なことじゃない。
話してて自分も相手も気分がよくなくちゃならない。少なくとも俺は気分がいい。
気分がいいどころか、興奮は絶頂だ。だから少しだけに期待もしてしまう。
「随分寒くなったよね。」
「俺もさっきブレザーだけじゃ寒いって思ってた。」
「ホントねー。…ねぇ、丸井は夏と冬どっち好き?」
「夏に決まってんだろぃ。」
俺はくしゃみをひとつ付いたあとの質問にそう答えるとはふふっと楽しそうに
あるいは呆れたかのように少し笑った。のほうへ顔を向けたとき、
同じ制服を着た自転車通学の奴らが視界に入ったのと、あまり変わらない身長だと思っていたが、
俺のほうが少し大きかったことに気が付いた。
は笑ったまま話を続ける。
「…それ、夏に聞いたとき冬に決まってんだろって言ってたよ」
「…そうだっけ」
「そうだよー。ふふっ確かに我慢とか出来なさそうだもんね。」
「うるせーよ」
笑いながらそう答えたその時、頬に何か落ちてきたような物体を感じた。
そのまま空を見上げると、空気が澄んで鮮やかなパステルカラーの水色をしていたさっきまでの空が
嘘みたいに、ただどんよりと重く灰色した雲がのしかかっていた。それを確認して
眉をひそめたその瞬間、大量の槍が降ってくるかのように逃げる隙間もなく大粒の雨が
慢性的に降り出した。しかし今日の天気予報で雨の予報はされていない。
「え、雨!?」
「嘘っ、こんな時期に夕立とか!?」
俺達はほぼ同時にそういうと雨を気にするよりなによりあたりを見回した。
しかし既に路地に差し掛かっていたので周りに雨宿りできるようなお店なんか見つかるはずがない。
とりあえず俺はロッカーに詰め込んでいてほとんど何も入っていない鞄を雨傘代わりに
使って頭の上に置いた。すると横にいたが急に俺の腕を掴んで走り出した。
「あたしの家、この近くなの!」
俺は何も答えず、ただ引っ張られるままに足を合わせた。冬近くなった夕立は
夏の熱気を含んで纏わり付くような鬱陶しさがなく、ただ濡れたところに吹いた風は
容赦なく冷たく感じ髄にまで伝わるくらいに寒気がした。
かさ代わりに使っていた鞄もすでにびしょびしょで、更に走っているために
ほとんど意味を成していない。俺は諦めたように腕を下げた。何も遮るものがないこの住宅街を
必死に走る。半ば、もう大分濡れていたので走る意味もないと考えてみたが、ブレザーから
染みこんで来た水分がワイシャツも濡らし、更にそれが肌にぴったり張り付いて気持ちが悪かった。
ただが掴んでいる俺の手首はちゃんと温かかった。
雨が降り始めてから三分ほどしても残念ながら雨は弱まることをしなかったが、
が前方を指差して何か叫んだ。
「あれあたしん家!あの灰色っぽい家の、隣!」
は更に強く俺の手を引っ張った。全身びっしょりの俺達は当然靴のなかは一つの池みたくなっていて
コンクリートのでこぼこに出来た水溜りなんか気にするわけもなかった。
は指差した目的地にたどり着くと、キーホルダーがやたらとついた鍵を取り出して
鍵穴の向きを確認してからそれを押し込んだ。
とりあえず雨が凌げる屋根のある場所まで入り、一安心した。
雨に当たっていないだけでも随分温かく感じた。おかげで家の玄関はびちょびちょに
なってしまったけれど、それよりもは雨のせいでぺったり肌に張り付いた髪を嫌っていた。
しかしその頬に張り付いた髪の毛にの不機嫌そうな、角度を変えれば俯いているようにも見える
その横顔が妙に大人っぽく、色っぽかったので髪を耳にかけてしまったときは少しがっかりした。
まぁそんなことを言ったらに殺されかねないと思い、あえて周りを見回した。
「ちょっとそこで待ってて。」
はそういうと自分だけ靴を脱ぎ、鞄を置きっぱなしにして細い廊下を通って
ドアの中へ入っていく。が通った後にぽたぽたと水の滴が落ちていた。
俺がどうしようと迷うまもなくはドアから顔を出し、オレンジ色したバスタオルを
投げつけてきた。俺はそいつを顔面で受け取った。
「それでとりあえず体拭いて、あがって」
「…いいよ、傘でも貸してくれたらそのまま帰るから」
「何言ってんの!大会近いんでしょ。こんなんで帰ったら風邪引くに決まってんじゃない」
「いや、でも」
「でもじゃない!今お風呂沸かしたから、沸くまで部屋に入って。暖房効かせてるから。」
「…ありがとう」
「いーえ。」
俺は体を一通り拭き、髪の毛をぐしゃぐしゃと水分を吸い取った。そのタオルを頭の上に
放置し、の後を追うようにして部屋へ入った。多少どころか大分罪悪感に似た感情を持った。
だけれど招かれた以上俺には断る理由をひとつももっていなかった。
こんなことってありなんだろうか。
ゆるやかな螺旋状の階段をあがり言われた部屋に入るとまだ暖かいという感じはしなかったが、
それでも外や玄関よりは大分暖かかった。それは体感だけじゃなくて、温もりのある淡い白い壁が視覚的にも
そう作用していたに違いない。に見るからに濡れているブレザーを脱ぐように促され、
それを渡すとは丁寧にハンガーに通し、壁にかけてくれた。すると随分自分の肩は軽くなり、
部屋の真ん中にすとんと腰を落とした。触り心地のいいカーペットを指で撫ぜる。
ワイシャツにまで雨が染み込んでいた部分が温風に乗っかると少しひんやりした。
「ここの部屋?」
「そうだよ。何か変?ていうかなんでフルネーム?」
「なんとなく。…イメージと結構違ったから。」
ゆっくり周りを見回す。特にの部屋のイメージなんて持ったことなんかなかった。
だけど今まで記憶が許す限りの範囲で女子の部屋に入ったことがなかった俺は
漫画やドラマで勝手に女子の部屋というのを想像していたらしい。
それとこの部屋は大分違うのだ。もっとミーハーな感じなのかと思っていたが、
の部屋は趣味のいいモノトーン調の小物や雑貨が置いてあるだけの簡素な部屋だった。
は苦笑した。
「何それ…ていうか汚いあたしの部屋でごめん。あたしの部屋が一番小さいから暖房の効きが早いと思って。」
入れてきたコーヒーに口をつけ、部屋にピッタリの白くて小さな丸いテーブルに俺の分を置いた。
白い湯気をたて、かき回した痕跡が残る渦を巻くミルクが入っている。
は俺の味覚を気遣ってくれたらしく、ガムシロップを三個とそれでも足りなかった場合を
考えてスティックシュガーを袋ごと持ってきてくれた。俺は少し遠慮してガムシロップを全部いれ、
スティックシュガーを一本だけ流し込んだ。
「全然。寧ろこっちがごめん。ここまでしてもらっちゃって」
「ううん!あたしはいいの。暇だったしね」
はタオルから覗かせた顔から今日一番の笑顔を見せた。
それを見て突如タオルを剥いでそれを自分のものにしたくなった。
…そんなことしたら怒られるだろうか。
いや、怒られるだけじゃ済まされない。
そんな些細でありながら自分にとっては重要な心の葛藤も知らず、はその顔を何事もなかったように
隠してしまった。そして一呼吸置いて俺から目を離し、未だに騒ぎ続ける窓の外を見る。
「それに、ね…」
「…え?」
聞き取れなかった部分を俺が聞き返すとがこちらをばっと向いた。
口を開けた。
ピピピピピピ…
機械的な音が廊下を伝ってこの部屋まで聞こえてきた。
は物言いたげな口を無理矢理に閉じこんで、次の言葉が出るのを待った。
俺はその飲み込んだ言葉にとても興味を持ったが、あえて聞かなかった。
「…お風呂、階段降りて左の奥だから。ゆっくり入ってきていいよ。」
「…あぁわかった」
が何を言いたかったのかはよくわからない。わからないというのは期待しすぎて自惚れた答えと、
あるいはその全く逆の答えと両方考えられたからだ。
なるべく何も考えないように、のほうを振り返らないようにして部屋を出た。
廊下に出るとびっくりするくらい寒かった。寒い、というより、冷たい。
そんな感じだった。先ほどまでこんな、これより寒いところにいたのかと思うとちょっと信じられない。
言われたとおり階段を降り、奥まで進んで脱衣所に入った。
風呂もカビ一つない真っ白なタイルで敷き詰めれていた。それをお湯の蒸気がさらに白く掠める。
湯船に入ろうかどうか戸惑ったが、寒さは抵抗に勝てなかった。
シャワー栓を一ひねりしてから肩にかけた。少し強いくらいの水圧が心地よい。
何も考えないように、と来たけれど、逆に良く考えたら凄くいけないことをしてる気がして
どうしたらいいのかわからなくなった。ただただ頭に降りかかる水を感じているだけだった。
「丸井!あのさぁ」
突然雲掛かったような声が外から聞こえてきた。少しびくっとして
モザイク状になっているガラスを見る。
「…あ、うん」
「洗濯機の上に着替え置いとくね」
「え?でも」
「大丈夫、これ兄のだから。多分着れると思う。」
「わかったありがとう。」
この薄いドア越しにがいる。そう思うと考えられない部分があって緊張してくる。
ガチャリとドアが閉まる音がして再び音はシャワー音だけになった。
俺はまたなるべく何も考えないようにしてさっと髪を洗い流した。
風呂場から出るまでに、時間がかかった。外はまた寒気が襲ってくるんだろうと思うと
気が進まない。しかしここにずっととどまっているわけにも行かず、腹を決めて脱衣所に入った。
そしてせっかく温まった体を寒さを感じないうちに素早くタオルで身を包んだ。
先ほどまで使っていたタオルとはまた別の乾いたタオルだった。
先ほど言われたとおり洗濯機の上には着替えが置いてあった。ロングのTシャツに、英語のロゴ入りの
センスのいい厚手のパーカー、七分くらいのゆったりとしたズボン。
ここまでしてくれなくても、と思いながら心の中での気の利きように敬意を払い
部活にでも誘ったらいいマネージャーになるだろうな、なんてことも考えながら素早くそれに着替えた。
とりあえず床や洗面器を気にしてから脱衣所を後にした。階段をあがり、一応念のためノックをしてから
の部屋へ戻った。するとはわざわざかけてあった俺の制服にドライヤーまでかけてくれていた。
「ホント、いろいろサンキューな。」
「別にたいしたことじゃないし。温まった?」
「おうばっちり。しっかしよく気が利くなー…」
「ふふふ、いいお嫁さんになれそうでしょ」
「なれるなれる。マジで」
その後に俺のになって、とか冗談交じりで言ってみようかと思って、止めた。
なんとなく、嫌な予感がしていた。
「は入ってこなくていいの?」
「うん。ここに居たら充分温まったから。あとで入るよ」
「そっか。」
俺は残っていた甘いコーヒーを飲み干した。少し冷たくなりかけていた。
「ホント今日はありがとう。服は洗って返します。あと靴も。えーと…今度なんか奢る」
「いいよ別にそんな!たまたまだし」
「…じゃあ今度俺おすすめのスイーツ専門店教えるよ」
「ふふっ。ありがたく教えてもらうわ」
と俺はお互いに笑った。
どう見ても私服に似合わない靴を見て、スニーカーまで貸してくれた。
ドライヤーで乾かしてくれていた制服もすっかり水分がなくなり、丁寧に袋に入れて
渡してくれた。外はすっかり晴れていて、水たまりには水色の鮮やかな空が移りこんでいた。
「じゃあ、また明日。」
「うん。また明日。」
手を振ろうとポケットに入れていた手を出しかけたが、その行為がなんとなく重く感じた俺は
隠したままそう言った。もそのまま笑顔で言ってくれた。
俺は荷物を肩にかけてにゆっくり背を向けた。
「丸井ー!!」
少し離れてから、背中越しに声が聞こえる。
黒い野良猫が一匹、視界に入った。俺は振り返る。
「また、来てよ!うちに!雨宿りにでも!」
は叫ぶように言った。少し遠くからでもわかるような笑顔でそう言った。
俺はおう、と簡単に叫んで返した。
黒猫はピクリと耳を反応させて路地を横切る。
は再び口を開く。
「あたし、好きだから!丸井のこと!覚悟してね!」
少し俺は耳を疑ったが、何度思い出してもそうとしか聞こえなかった。
俺はずっと我慢してきた気持ちがすっとなくなったようにすっきりした。俺も口の横に手を添えて叫んだ。
「も、覚悟しとけよ!」
それから一度も振り返らず、俺は黒猫を見て歩き出した。
タイヨウが、少し西に傾き始めていた夕方の話だった。
(061210)