突然、隣に居た英二が私の手を握ってきた。その手は微かに冷たく、鼓動がはっきりと聞こえる。
伝わってくる脈はなんだかいつもより速い気がする。途切れる場所が見当たらないかのように一定のリズムを刻み、
それはなおも続く。時計の秒針よりも少し速い。一分間に100回は超えそうだった。
毎日強豪青学テニス部のレギュラーとして練習をする英二だから、ちょっとのことでこんなには脈はあがらないはずだ。
英二はしばらく私の手を強く握ったままだった。私は黙って何もしなかった。置かれた手を見つめただけだった。
最近英二は突然こういうことをする。突拍子もないことをする。
私が英二の前を去ろうとすると何も言わずに腕を掴んできたり、話の途中でも、ムードが無くても私の口をふさいだり。
長い間付き合ってきた彼氏だとしても異性にいきなりこういうことをされると私もちょっと困った。
何度かされたのだけれど、どうも慣れないのでたちが悪い。それにムードメーカーでお調子者のイメージのある英二が
真剣な顔して何も言わない空気にも、何故かピンとこない。想いが繋がった時点でそういう場面もあるのかなぁ、なんて
軽い期待を胸のうちに秘めながら考えていたけれど、本当にされて違和感を覚える私は彼女失格なんだろうか。
英二の脈は速いけれど、私の中の時間は止まっていた。全然時間が進んでない感覚だ。
時々動く時計の針を見ると、私がおかしいのではなく、時間がおかしいんだと思ってしまう。
何分くらいたったのか私にはやっぱりわからなかったけれど、周りの景色が流れるように変わっていく。
周りの時の流れはこんなにも速いものなのだろうか。皆、そんなに急いでどうするんだろう。
私に明日の予定のこととか、それよりもこれからどうしようかなんてことは頭に無い。英二と一緒にいる生活で
私の考えが少しずつだけれど変わっている。先のことを考えるなんてまだしなくてもいい。背伸びなんかしなくていい。
今だけを生きる。今の時間、空間。それ充分だ。そしてそれが出来るのも今だけなのかもしれない。
子供の考えだと言われるけれど、事実子供であることには変わりはないし、もう少しこの考えに甘えていたかった。
すっかりあたりは別世界に来たようだった。何も考えてなかったわけじゃないけど、もう覚えてない。
英二の手が少し緩んだ。気付かなかったけれど、暖かくなっている。私は初めて英二の顔を見た。
近くを見ていたけど、どこか遠い。私の脈が強く高鳴り始めた。この感覚は久しぶりかもしれない。
英二は前を向いたまま私のほうは見なかったけれどやっと口を開いた。
「俺ね、がどっか行っちゃう気がして。」
少し驚いたのかもしれない。英二がこんな風に考えているとは知らなかったから?
いいえ、違う。今の私にそんな考えがすぐには出てこない。もっと抽象的で、単純な方だ。
「だから、存在を確かめてた。そうでもしなきゃ消えそうだったから。」
考えは浮かばなかった。何をしたらいいのか、何を言ったらいいのか、そんなことはどうでもよかった。
沈黙は苦手なほうだけれど今度は私が黙りこくる番かもしれない。湿っぽい風が唇を掠めた。私は少し息を呑む。
感性は薄い方だし、詩的センスも全くない。だから静寂が美しいなんて、思ったこともなかった。
「隣に居て、ずっと。」
私は置かれたての上にもう片方の手を乗せた。空気が冷たくなってきた。左手に力を込める。
英二の肩に自分の頭を乗せて空を眺めてみる。空はどうやら私を拒んでいるようだ。それが少しだけ虚しくて
ほんのり熱くなってきた目頭を目を閉じることで我慢し、少し眉をひそめながら小さく笑った。
名前を呼ばれる。近くに居るはずなのに、遠くから呼ばれている気がした。
怖くはなかった。恐れもしなかった。時間を知らなくてもいい。ただこの空間を感じていたかった。
ありきたりなことも出来ないけれど、それでも私は満足していた。もう諦めに近かったのかもしれない。
すっと手を離されて少し高い英二の頭が私の頭にコツンと当たる。私は静かに目を閉じた。
夢 現