遼遠の歌


第一話 幽玄の声









 日輪が先の山陰に沈んでいく頃、辺り一面の黄緑色の田圃に囲まれた畦道から山道に
息を切らしながら走っていくセーラー服姿の女がいた。身の丈は平均的、色素の薄い肌や目は
背中まで伸ばした黒く艶やかな髪を引き立てるのには十分だった。

東から三分目あたりまではすっかり紺瑠璃色に包まれている。家々からは夕飯の匂いが漂って鼻腔をくすぐる。
子供達はとっくに家に帰っており、一家の大黒柱でさえも家路を急ぐ。今や烏も鳴かない。
山に囲まれたこの村である。昼間の水気を含んだ湿っぽいモゥらは場所が変わってしまったのでは
と思う程に、夜はさらりと肌を撫でるモェ吹いていた。木々の間からの急な突モノは
寒さを覚える程背筋がぞくぞくする。
女は必死の形相で人がいない方へ、人がいない方へと奔っていく。
女は振り返った。そして未だ必死に奔る。まるで何かに追われるように。暗い方へと走っていく。

しかし女の背後には、誰もいない。

人影はおろか狗や猫の獣一匹もおらず、ただっ広い田畑が広がっているだけなのである。
女はさらに息を切らす。じわりと首の後ろから汗もかいてきた。膝よりやや短めではあるものの
その濃紺スカートはどうやら走りにくいようで舌打ちをしながら端折るようにたくし上げた。
薄暗い小道に入ると今にも東に伸びた影が襲ってくるのではないかと不気味なものだ。
しかし彼女の前には今進む道一本しかない。そしてその先はもう山裾である。
乱れた呼吸が整うはずもなく、もう一度振り返りきゅっと顔を顰めながら駆けていった。






 「ダメ、もう無理……」
平坦な畦道でも既に半里は駆けていた上に、舗装されていない山道である。
上り坂は勿論、行く手を邪魔する枝や葉、地面の凹凸が負担であることこの上ない。
ただでさえこうである。「何か」に追われている女の精神力と体力は限界に迫っていた。

「何で、まだ……追ってくるのよ……!」
ぎりぎりと疼く脇腹を握り潰すようにして痛みを相殺していたが、それですら効かなくなってきていることに
気が付いた瞬間、一気に左半身に痛みが蔓延した。ぐらっと足元が揺らいで右から景色が反転。
女にはその崩れ落ちる一瞬がとても永い時間に感じていた。

嗚呼、もう私は喰われて死ぬのか。
回り灯籠のように生を授かってから今までの出来事が頭を駆け巡っている。
女は死を覚悟する。既に意識が遠退きそうだ。いっそそうなってくれと願うばかりだったが
直面した死への恐怖が片隅で生を乞うことになりはっきりと覚醒するのだった。仕方なく潰れるほどに目を瞑り、
耳を塞いでこの一瞬を耐えようとする。それでも恐怖の念は消滅することなくただ精神を削っていくだけだった。
やるなら早く、でも怖い、怖い、厭だ、助けて――。

しかし女の躰がとうとう地に投げ出されることはなかった。女は困惑する。
降下は止まり、ふっと左から軽く引き上げられた。


「こっちだ。」
「え、何!?どちら様っ?……わっ!」
女の問い掛けは答えられることがなく、手を取られて先導されるがままに茂みへと進んで奔っていった。
背丈ほどの高さの枝や葉が視界を阻むので女は手を引いてくれる彼の貌が見えなかった。よくわからない。
ただ、手の感触で女でないことだけがわかっていた。そして奇怪なことにたった今限界に到達したはずの躰が動くのだ。
縺れていた足も軽い。呼吸も幾らか楽である。女は浮遊しているような不思議な感覚に囚われた。








 それから五分程経って男は急に失速した。ずっと全速力だった女は勢いが殺せず男の背中に激突した。
しかし男の背中は思いの外柔らかくふわりと女を受け止めた。
男がほんの少し振り返る。詰襟のボタンを外した学生で女と同じくらいの十六、七の歳であろう青年貌であった。
そして豪く輪郭線が薄い印象である。髪も色素が薄くふわりとしていて、瞳の色は何かを吸い取られそうに
なるほど端麗な淡色である。ブラウンというより灰褐色に近かった。肌は女が雪のように白いと形容するならば、
男の方は儚く白いと言うべきだろう。透過しているのではと錯覚するほど今にも消えそうに淡いのだった。

もう「何か」は追ってきてはいない。聞きたいこと山々であったが、女は背中越しに見えた景色にきょとんとしていた。
小さな神社がそこにはあった。それもそのはず、神社がこんな山奥にあるなどと知らなかったのである。
その上奇妙なことに鳥居に対しての神社が幾分も小さい。しかしその鳥居は鮮やかな朱色がよく映え、
堂々とそびえ立っており見る者を圧倒するので自身が違っているのではないかと思わせる程であった。

「とりあえず中に入ろう。傷の手当はしたほうがいい。」
「え?そ、そうね、ありがとう。」

女はそう言われてから自分の足に傷があることに気付いた。
これは単に葉や枝に引っ掛けて出来た傷ではなさそうだった。傷自体は小さいが深いらしく自覚すると急に疼くのである。
現に女の太腿や足首はずきりと唸っていた。しかし、それだけではない。足首の周囲は何やら禍禍しい暗黒色した「気」の
ようなものを纏っている。手で払ってみても無論、消えるわけもなく誠に奇異な現象ではあったのだが
女にはそれに対して心当たりがあるようで大して騒ぐことはなかった。

木造の小さな建物ではあるが神社は神社である。この稚い男はこの場所を以前から知っているような素振りでなので
さすがに家ではないだろうと思い、知り合いの住職でもいるのかと女は考えたが中には人の気配が全くしなかった。
嘗て木の渋みある茶色をしていたであろう木材は古惚けて鼠色に翳んでいる。この世に生まれて精精拾数年の女にとっては
それが一体何年物であろう等と検討もつかなかったが、その色の割に随分しっかりした造りで家鳴り等も一般家庭と
同程度であったりするので未だ何もわかっていない女であったが、この建物に違和感を覚えたことに変わりはないのであった。
しかし、不思議なことに女は同時に安堵していることにも気が付いた。もちろん事態が収拾したからというのもあるのだろうが、
女はもっと別に理由があるのだと第六感のようなもので自然と感じ取っていた。この落ち着きが何なのかは誠に形容し難い。

二つ程部屋を過ぎ、此処で待っていろと指示された女は、まだ奥にも部屋のようなものがあることを発見して
そしてこの建物が別段小さかったわけではないことに気が付いた。
見るものを高圧的にしかし悠然と構えるあの様。あの鳥居こそが異形であったのだ。
印象的なあの朱色を思い起こすうちに、四方形の木造箱を持って男が再び現われた。

「此処は貴方の家なの?」
「まさか。……まぁ似たような物ではあるけどな。」
「そう。ねぇ、どこの学校?うちの学校で見ない顔だわ。」

山に囲まれたこの辺りの町で、高等学校は一つしかない。小学校も中学も一つずつしかない。
だから、この辺りで産まれた子ども達はだいたい顔見知りのはずなのである。
女はまだまだ聞きたいことがたくさんあるのと言いたげな前傾姿勢であったが纏まりきらないうちに
男は女の前にどかりと坐り木箱から取り出した軟膏を指先にたっぷり乗せ、「痛っ」と発声するのも構わないで
傷口に塗りたくると、手早くガーゼと包帯でそれを覆った。傷自体はそれでよかった。
しかしまだ足首の黒い「気」のようなものは消えていない。

「そんなの何処だって良いだろう。それよりお前、少し目を瞑れ。」
「え?何故?」
「いいから。目までやられたいのか。」

まだ知り合って間も無い。何処の者なのか、名すら知らないこの男に不信感はあったものの、助けてくれた恩人である。
女は言われるがままに目を閉じた。目蓋越しに入ってきたのは稲妻のような真っ白い光だった。目を閉じていても眩しい。
反射的に眉を顰めた。しかしそれは一瞬の出来事で、直ぐにまた暗い目蓋の裏に戻った。

「もういいぞ。」

男に言われ女は目蓋を上げた。閉じる前と景色は何ら変わっていない。ただ、先程までの黒い「気」が全く無くなっていた。
女は驚き目を丸くした。木箱を片付けようと女の隣を離れた男の手首を強く?んだ。

「一つ聞いていいかしら」
「何だ」
「貴方も『見える』の?」
「……何の事だ」

男は捕らわれた右手を振り払い、木箱を元あった部屋に戻そうと古びた襖を開け廊下に出た。女も諦めずその背中を追って
廊下へ出た。山風が通り抜ける。太陽が堕ちるに連れて気温も下がるようで薄手の制服だった女は身震いをし、
つかつか歩く男をもう一度引き止めた。男は女に背中を見せたまま黙り込む。

「私が追い掛けられてるって、わかったんでしょう?あの……妖怪に。」
「さあな。」
「お願い教えて。助けてくれたでしょ?それに、今の黒いヤツだって消してくれた。」
「……離せ。」

女は慌てて?んでいた上着を離し数歩後ろへ下がったが、ごめんなさいという言葉は堪えて飲み込んだ。
男は木箱を置き振り返って女と向き合った。激しい山風も瞬間止まる。
ただでさえ瞳の印象が強いこの男である。静寂に女は数秒合った目すら逸らさずにはいられなかった。
薄い障子からは残り僅かの西日が零れて来る。開け放たれていた部屋の畳から更に反射し男と女の左半身、
または右半身を橙色に染め上げている。女は軽く握っていたスカートを離した。

狭い廊下入りこんだ突風が空間を分かち、女の黒髪を揺らす。
男は瞬間目を瞑った。そして何かの薫りを感じ取ったように橙の方向を向く。紅く変わり始めた葉が
流されては舞い、流されては舞う。どの方位からも木々の騒めきは止まない。しかし心地よい騒音であった。


「……この辺り一帯は妖が集まりやすい。」
「え?」
「麓まで送ってやるから、早く此処を離れるんだな。」
「ちょっと待って!貴方のこと教えて!私……貴方みたいな人初めてだから、もっと話をしたいの!」
「さっさとしないと今に真っ暗闇だぞ。」
「……そうね。」

拒否をされた。早く追い返したくてたまらないのだろうか。疎ましく思われていることには慣れっこであったが、
それでも女は少し寂しそうに、口惜しそうに俯いた。男は軽く溜息を吐きながら女が見せた後頭部を撫ぜる。

「お前……名は?」
「若奈よ。若奈琳子。どっちも名前みたいでしょう」
「ほう。若奈琳子か。……そうだな、お前はリンだ。」
「リン?」
「ああ。リンという感じがする」
「そんな風に呼ばれたことないわ。」
「嫌か?」
「いいえ。ちょっと意外だっただけ。」
「そうか。……リン、これを着て行け。」

男は自身が着ていた詰襟を琳子の頭に被せた。

「汗で大分冷えただろう。これからかなり気温も下がる。」
「でも……これ」
「俺は此処にいる。返しに来い。」

琳子は男の目を見張った。先程までの尖った印象を忘れるくらい優しい目をしていた男が立っていた。
琳子はそれを肩から羽織った。仄かな温もりが残っている。差し出された手に自分の体温を預けると
ひょいと持ち上げられた。

「ええ。」

琳子はそう返事をすると、ふふっと上品に笑い、又その背中に付いて行った。








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ほんとはオリジナルで長編と思ってたんですが、1話の始まり方がある話に酷似していると
気付いてしまったのでやめました。気に入っているのでひっそりゴミ箱upはするかも。
(090107)