おかしい。変な胸騒ぎがする。久々に部活が休みで体がおかしくなったからなのか。
そういうこと全然知らないし、テニスのことで頭がいっぱいだから他の人より知識量が足りてないかもしれない。
別に困っているわけでもないしそんなことに興味はない。ただ理由もわからず自分の体さえ理解できないがとにかく今日は
悪い予感がずっと去ってくれない。
まぁ未来のことを心配したって得体の知れないものを案じたってまるで意味が無いのと同じだ。今日は特にやることもないし、
一日中家に居てゆっくりしていればいつの間にか去っていくかもしれない。そう考えながら冷蔵庫の中の作り置きしてある
お茶を取り出した。ボトルに触れてみるとひんやりした空気の中、微妙に生温かった。
多分作って冷蔵庫にいれてからそれほど時間がたっていないんだろう。冷凍庫の氷を3、4個ほど取り出してコップの中へと
入れると氷の角が丸くなりほんの少しずつだが溶けていく様子が見えた。お茶を一口入れると氷が口の中に転がり込んできて
内側から外側へと浸透していく。誰も居ないリビングダイニングを見渡すと、忘れかけていた日常の日曜の朝を少しずつ
思い出してきた。少し上に伸びをして欠伸が出かけたその時にちょうど家のインターホンが鳴った。
部活から帰ってきて風呂入ってご飯を食べると疲れてしまっているのですぐに寝てしまうこともしょっちゅうだ。
この無機質な音を聞くのも久々かもしれない。
「はーい。」
特に何も考えずにドアをあけると、そこにはうちのクラスの女子が私服で立っていた。今日はとくに何かある日でもないし、
ましてやこの子とはあまり喋ったこともなかった。意外な顔に少しきょとんとしていると俺の顔を見て小さくため息をついた。
「その様子だと、本当に何も言われてないんだね。」
「?…何のこと?」
「には言うなって言われてるんだけど…やっぱり言わなきゃダメだと思って。」
「が…?」
俺から少し視線を外して何度か瞬きをすると印象的なぽってりとした唇を開いた。
静かだった。普段から人通りの少ない家の前は日曜の朝だとこんなにも清閑としているのか。まるで音がない。
自分の声さえも、失ってしまったみたいだった。
R i p p l e
「じゃあ、後から追いかけるから。」
私は一言そういって母と父の乗ったタクシーを見送った。仕事が忙しい父はどうしても今日も出なくてはならないらしく
空港に着いたらすぐに出勤だそうだ。私は特に用事も無く、急ぐこともなかったのでゆっくりと一人で電車で向かうことにした。
飛行機までの時間はまだたくさんある。
初めての引越しでもうこの町にも住み慣れている。あまり実感がなかったのだが、なんとなく私を疎遠しているように感じた。
なんとなく過ごしてきてしまった14年間で思い出といって思い出せるものもすぐには無いけれどやっぱりこの町が好きだった。
良い友達にも出会えたし、親友もできたし、カッコイイ彼氏も出来た。学校も好きだった。
南からの生暖かい風が前髪を吹きつけおでこが露になる。眩しい春の日差しと突風に顔を顰め、家のほうを二度と振り返らずに
駅へ向かって歩き始めた。都心ではあったが華やかな、というよりは長閑な町だったので日曜の朝はやはり人が少ない。
けれどこの雰囲気が好きだった。深く深呼吸をして一歩一歩を踏みしめる。歩いている。そういう感覚さえも何故か久しぶりのように
感じた。
電車の中で揺られているうちに昨日を思い出していた。昨日はいつも仲良くて遊んでいた私を含めた4人グループが
シークレットでお別れ会を開いてくれた。とても遠くに行く。それを感じたくはなかったので学校では
先生たち以外にその3人にしか報告しなかった。仕方の無いこととはわかっていたのだけれど、今の私たちでは
どうすることもできず本当に会えなくなる。親友にこそ言いたくはなかったのだが後で悔やむからと思って決まった時点で
真っ先に報告した。私の親友は少し悲しげな顔をしたがそっか、と笑顔で一言そう言った。
それからしばらく、やはり私は寂しい想いが募っていったのだが報告した3人は変に気を遣うでもなく、変わらずにいてくれたので
とても嬉しかった。そういえば、と思い出しこの前買ったばかりの白いカバンの中を探った。
昨日撮った写真とか貰った手紙とか4人で一緒に買ったストラップとか、親友とふざけて買ったペアリングとか
手で探って、形を感じる。温もりを感じる。今それを見てしまうと泣き出してしまいそうなのだ。
だから出さずに、閉まっておいた。その瞬間、昨日のことを含め、皆で遊んだことを突然思い出した。奥歯でぐっと堪える。
赤也には、何も言っていない。多分それを知ったら怒るだろうし侮辱されてる気分になるんだろう。
だけれど私にはそれを言って冷静で居られるほど強くはなかった。もしもそれを言っていたならやっぱりこの土地に縋り付いて
いただろう。今でさえ縋り付いて居たいんだから。そしたらたくさんの人に迷惑がかかるのはもちろん、
次の新たなる土地で明るくなんていけるわけが無いのは目に見えていた。
出来れば、赤也の中から私の存在を消して欲しかった。忘れ去って欲しかった。
長いこと電車に揺られていたせいでコンクリートの床に出たときは足元にふわふわしたものをおかれたような違和感があった。
ここまでくるのにも随分遠かった。この先はもっともっと遠い。足元が崩れそうだった。
もといた場所よりも人が多く、空港の駅だけあって何度も押しつぶされそうになった。
改札をなんとか出て流れて階段方向に向かっていくと空港方面へ行くようだったのでそのまま進んだ。
駅とは少し違う雰囲気の広い場所に出たのでどこかと確認すると空港のロビーだったので少し安心した。
ここで母と待ち合わせの予定だが、母は買い物でもしているんだろう、まだその場所に来ては居なかった。
あと数年は日本に帰ってこれないかもしれない。そう思って私もこの近くのお土産やさんを見て回ろうかと思った。
突然かがんだ膝に水滴が垂れた。お土産用のテディベアのキーホルダーを手にとって眺めていただけだった。
テディベアは愛想よく小さく笑っている。今更になってやっぱり私は後悔していたみたいだ。
私の存在を消して欲しい、それは自分の弱さがはっきりと出ていることに今気付いた。それは裏返される。
一粒でてはまた一粒、今度はもう流れ出てしまってきた。もう自力では抑えきれなかった。
馬鹿みたい。私は何やってるんだろう。店の端まで行ってばれないように
シフォンのスカートに顔を埋めていた。指で拭っても拭っても零れてきてしまう。
情けないと思う。自分が勝手に決めたのに泣く権利なんてあるわけがない。それでも涙腺は緩みっぱなしで歯止めがきかない。
謝りたい。今すぐあって、謝りたい。この別れは私の強かった気持ちさえ簡単に崩してしまう。
顔がみたい。逢いたい。
私の横に、黒い影が出来た。
それに気付きはしたのだけれどなんだか顔をあげるのが怖くて蹲ったままで居た。しかし、いつの間にか涙は止まっていた。
スカートの裾は水分を含んで少し重い。私は更に強く膝を抱えた。
「お前…何してんだよ。」
その声を聞いて再び涙が流れ出る。今度は拭っている余裕もなかった。なんで泣いているのかわからない。
それでも涙はプログラミングされているように規則正しく、休まず出てくる。
ますます顔があげ辛くなった。
「顔、あげろよ。」
「…やだよ。こんな顔じゃ公衆の面前に出れないもん。」
「ここ空港だぞ。」
その声は笑いながら私を抱きかかえた。優しく髪の毛も撫でてくれた。
私はシャツを握ったまま安心しきって抱かれたまま相手の胸で泣いていた。黙って受け止めてくれた。
「…ゴメン、ね。」
やっと私は涙で掠れた上ずった声から一言を絞り出した。涙は言葉に変えられない。言いたいことはたくさんあるのだけど
今の私には上手く言葉に出来なくて涙に込めた想いを受け止めてもらうことしか出来なかった。
本当に、私は馬鹿だ。
言わなくて、ゴメン。私自信がなかったの。赤也に言ったら絶対行けなくなると思ったから。
そしたらお父さんにも、お母さんにも、周りの皆に迷惑かけることになっちゃうから。
そう思って何も言わずに別れようとしてたの。
存在を消して欲しいって思ってたのは私が弱い人間だから。忘れることが出来ると思ったの。
だけどね、全然ダメだった。一人で泣いて、結局振り出しに戻ったの。今ね、後悔してたとこだったの。
「ちょっとは落ち着いた?」
「うん…」
「謝るなよ、もう。…でも吃驚した。それになんか悔しかった。」
私は相槌しか打てなかった。私を抱いている赤也の腕にほんの少し力がかかった。
私も赤也のシャツをもっと強く握った。もうずっとそのままでいたいと思った。時間が止まって欲しかった。
私は空港の電子掲示板と時計を同時に見上げた。そしてフロアを見渡した。
おそらくファーストクラスに乗るであろう、身なりが高級そうな人たちが搭乗の準備をしていた。
私たちは一庶民なので当然エコノミークラスなのだが、もうすぐ私も発たなければならない。母が探しているかもしれない。
私は赤也の胸からそっと離れた。
歩き出した私の腕を後ろから掴まれた。私は振り返らなかった。
「…引越し先って、どこ。」
「…海外だよ。もう何年も帰ってこれない。」
「俺はずっと」
「無理だよ!」
何を言おうとしたのかなんとなく予想がついていた。
今までより少し大きめの声で赤也の言葉を遮るように言った。私は自分自身のこの声が嫌いだった。
「別れよう、赤也。私遠距離なんて自信ないよ。」
私は俯いたまま続けた。
掴まれた腕を強く引かれ、私はまた赤也に抱かれた。今度はさっきよりもずっとずっと強かった。
「やだね、俺は。」
赤也の声しか、私の耳には聞こえなかった。
顔を上げたかった。だけれど強く抱きしめられていて思うように体が動かせなかった。頭に手を置かれた。
周りとの時間の流れが全く違うように感じた。やっぱり急ぐのは性に合わない。
「の我侭に付き合ったんだから、今度は俺の番だろ?」
赤也は悪戯に笑う。自分の目の前は歪みっぱなしでその顔さえはっきりと見ることができなかった。
「自信なんて、いらねぇよ。」
「…今度、は泣いてあげない、からね…!」
やっぱり弱いんだ。私には横に居てくれる、何でも受け止めてくれる、赤也が必要だ。
私は強がってみたけど、悔しい、また流れてくる。私の涙は枯れない。底を知らない。もう涙腺が緩みっぱなしだ。
頬に手を当てられ、涙を拭われた。紛れもなくテニス選手の、赤也の指だった。
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母と合流し、客室乗務員に誘導されながら私は飛行機に乗り込んだ。母を随分と待たせてしまったらしいが、
母は何も言わずに笑ってくれた。私は携帯のメールとメモリーを全て削除した。携帯をぱたりと閉じた。
私は、また戻ってきます。それまでは、待っていてください。
いってきます。