半年前にあれだけ恋しがって想像していた暖かい季節は、今や灼熱の地獄と化していた。
地上の水分が熱せられて気化していく様が目に見えるのはどうも気分がいいもんじゃない。
自分の体もそうやって水分が奪われているのかと少し呆れて指先を見る。
少しでも見た目の水分補給になるであろう、ちゃんとした芝生のグラウンドが俄然羨ましくなった。
弱くはないが、強くもない。ましてやその年々によって強さの変わる市立高校サッカー部に
芝のグラウンドを整備してくれようなんてお人よしは今になっても現れてくれない。
予算などあるはずがない。毎日毎日砂あるいは泥に塗れてボールを蹴る。サッカーは野球より
爽やかというイメージがあるらしいんだが、とんでもない。男ばかりのむさい空間でそういう姿
というのはそんな言葉からかけ離れている。暑苦しい。その一言に尽きる。


唯一砂のグラウンドで良いことといえば、一定時間のスプリンクラーか。夏のギラギラ太陽の
真下にあるこのグラウンドは、普通よりもすぐ干上がるようで、30度も後半の気温になると
黄塵万丈激しく、頻繁に恵みの水を撒き散らすのだ。
部員たちの何人かは砂漠地帯に起きた干ばつからオアシスを見つけてマイムマイムを踊りだしそうな
人のようで、ランダムに撒かれる水を追いかけていた。さっきまでへとへとで動けないと言ってた
奴はどこのどいつだったろう、と俺は目を細める。


しかし本当に暑い。暑いという形容のワンランク上の言葉を作って欲しいくらい暑い。
連中に混じって今すぐ水浴びをしたかったが、俺はそれをしない。練習はまだまだ続くのだ。
確かに一度濡れたら涼しいかもしれない。しかし濡れて再び太陽の下へと戻ると
洗濯物が乾く要領で当然水分は蒸発する。その際に余計な潤いまで奪っていくのだ。
おまけに現在午後二時を過ぎたところだ。そうなると疲弊は今の比ではなくなるだろう。
まぁ水浴びをしている奴らは知らないだろうな。知らないし考えられないだろう。馬鹿だから。
愛と皮肉を込めて奴らを見る。連中のことは嫌いじゃない。馬鹿だから。




俺は一階の校庭寄りにあるトイレに駆け込んだ。小便など暑すぎて引っ込んだからしばらく
したくはないんだが、体を冷ますのにはちょうど良い場所なのだ。太陽を遮り、風上にある分、
こちらの方が断然涼むことが出来る。
汗を完全に止めることこそ無理だったが、それでも呼吸を整え、顔を洗って汗だか水だかわからない
液体という液体を拭き取ると、いくらか落ち着けた。洗面所を後にし、廊下に出る。



小学生のときに友達に誘われてなんとなく始めたサッカーをなんとなく続けていた俺は
中学の強制部活動で他に入るものがなかったのでなんとなくサッカー部に入った。
出来る奴は奴らなりにスポーツ推薦なんかで高校に進学したものだが、レギュラーには入っていたものの
学校自体が強いわけでもなし、ましてや目立つようなスター選手なわけでもなし。
なんとなく引退もして特に何の目的もなく偏差値相応の高校に進学した。三年間で得たものと言えば
それなりのサッカーの技術のみ。失ったものは三年間における時間か。
そう、俺は部活をやっていた「時間」を喪失したものだとさえ考えていた。
練習に打ち込んだ時間、プライスレス。阿呆か。タイムイズマネーだろうが。表には出さないが
考えは超現代っ子なんだ。スポ根が似合わないとわかったのもある意味得たものか。

だからは高校部活なんか入らず、適当に遊びながらだらだら過ごしてやろうと思っていたのだが、
何せ地元の高校である。同期と先輩の執拗な勧誘にうんざりし、結局今もこうしてサッカーを続けている。

長身痩躯のイケメンであれば俺も何かにこだわったりするのだろうが、生まれてこの方
残念ながら取り立てることもない中肉中背のフツメンでずっと通ってきている。
その常々に流され自分がやりたいのかどうかさえわからない。そんな平凡な男子高校生。
きっと俺みたいな奴を探したらいくらでも出てくるだろう。俺は物語の主人公としては平凡すぎる。
ストーリーの世界に必要なのは、そう、例えば今進行方向にいる「女」とかな。




 流泉寺 青は一言で言えば変な奴だった。何が変かって、まず名前でインパクト大だろう。
ここまで関わらなかったとしても、きっと一生覚えてる。
苗字は由緒正しそうだが、本人が話したことがないので知らない。
が、名前は名前なのかどうかすら疑わしい。「アオ」としか読めないその名は「ハル」と
読むんだそうだ。全く、漢字ってのはややこしい。

そしてビジュアル。細く柔らかそうなダークアッシュの髪色と同じ灰色の瞳。染めたりカラコンをして
いるわけではなくこれは生まれもった天然のものらしい。さらに白く滑らかな肌で筋の通った鼻は、
さも外国人かハーフかと思うが、家系図を辿っても異国の血らしいものは混ざっていないのだと聞いた。

これは俺の独断だからあまり参考にならないかもしれないが、黒髪ロングの大和撫子、香坂が
うちのクラスでは断トツだろう。その次にくるのがこれまた黒髪美人で、ショートヘアの都築。
そうだな、その次くらいにくるのが流泉寺だ。純和風好きの俺がこれくらいの評価なんだ、
可愛いってことは伺えるだろう。勿論一番だと言う奴もいるだろうな。学校の3トップといわれるだけある。


しかし見てくれに騙されてはいけない。こいつの奇人っぷりは俺がよく知っている。
フランクな性格はさばけきっていて気持ちの良いものなのだが、興味のあるものへの探究心というものが
かなり強いらしく、一度やりだすと興味が尽きるまで停止することを知らない。
今でも三年に一度くらいやっているネッシーやツチノコの特番を見た次の日なんかは
図書室へ向かって都市伝説や妖怪系の本を借り占め缶詰になっていたし、
某おじさんアドベンチャーの映画を見に行った時は、これから世界の遺跡の謎を解明するために
たくさんの資料を頭に入れてそれから体を鍛えなくちゃとはりきっていた。
この前なんか地球の表面がどうとか言って、近くの工事現場に赴き毎日のように親方さんと談義
していた。今ではすっかり現場のアイドルとなってるらしいが。俺はそういうことをやってると聞いただけで
首は突っ込まない。何故かって?俺も過去の失敗から学んだのさ。経験が訴えてるんだ、
こいつの興味に付き合うなってな。

あとはこいつの周りでは男の色が絶えないということくらいか。

他にもレジェンドはたくさんあるのだが、それはまた別の機会に取っておこう。
たちが悪いのは、これらの行動には興味があるってだけで意味のないものらしい。本人が言うんだからそうなんだろう。
俺の予測では今の所暇潰しか、暇潰しか暇潰しか、暇潰しだとみている。そんなとこだな。

「すっげー汗」
「今顔洗ってきたの」
「あれで?」
「なわけねーだろ。アホと一緒にすんな。」

ハルが指した方向を見ると未だスプリンクラーではしゃぐ馬鹿者どもが視界に入る。
スプリンクラーだけに終わらず水道からわざわざホースで水を引っ張って掛け合う馬鹿もいた。
全身に水を浴びた奴は着衣泳でもしたのかと聞きたくなるばかりである。
もちろんTシャツも透けているのだが、野郎の裸が浮き上がってたって何も面白くない。
第一あれじゃあ蒸気、体温云々よりも全身びしょびしょで動きづらいじゃねぇか。

「ふーん、アホねぇ?」

ハルは意味有り気に見つめてくる。少しだけ上げた口角が、なんだか自分を小ばかにされた気がして
ああん?とか言いながらメンチを切ってみる。それはもうDQNさながら。勿論半分冗談だ。半分本気だったのは
隠しておこう。するとハルは先程のアイロニーたっぷりの笑みとは違う自然な笑みを見せた。

「あんたの言う『アホ』には愛があるなぁって」
「馬鹿にしてんのか」
「違う違う。なんか羨ましいんだよねそういうの。」
「……M?」
「もっと違うって!」
「俺散々言ってこなかったか、ハルはアホだって。あれだって愛が篭ってんだぜ」

俺がじとっとした目で淡々と冗談を言うとハルは声を出して笑った。俺が見当違いな答えばかりぶつけるのは、
なんとなくハルが感じてることがわかるからだ。しかしそれを言い当てた時のハルの表情に俺は
どう反応していいかわからなくなる。そういう確信があるから絶対に言わない。

「あ、ねぇ部活終わったら空いてる?」
「なんで」
「買い物に付き合ってほしいんだよね」
「お前、そういうのは五十嵐と行けよ。」
「……」
「五十嵐のこと、ちゃんと好きだろ?」
「うん」
「な?俺言っといてやるから」
「あー……うん。そうする。……部活邪魔してごめん!また明日!」

ハルはそういうと小走りで階段の上へ消えた。一段飛ばしで駆け上がっていく足取りがなんとなく危なっかしくて
俺はその後ろ姿が完全に見えなくなるまで見送り、再び炎天下へ帰った。
最後に合わせなかった目が気になって、少し揺らいだ表情はしばらく忘れられそうにない。

そんな気持ちは早めに拭ってしまいたい。俺は頭を振り切り校舎のおかげで出来た小さな日陰にあるベンチに向かった。
一メートルほどの幅しかない陰に汗臭い男の集団が群がっている様は見るに耐えない。
あの日陰が天の慈悲だというならばなんて器量の小さい神なんだと思うね。
俺はその中でタオルを頭に引っ提げた茶髪短髪の奴に声をかける。こいつが今のハルの男であり、俺の数少ない友人である。

「おい、五十嵐」
「はいよ」
「ハル……いや流泉寺が部活の後買い物付き合えってよ」
「おうサンキュー。っつーかわざわざ気遣って言い直すなよ」
「遣ってねーって。それよりお前流泉寺とはどこまでいったんだよ?」
「はははっ。まだなーんにも。手は一応繋いでくれたけどな」
「そりゃお気の毒」
「男とっかえひっかえっつーから簡単かと思ってたんだけど……なぁ、蒼汰はどこまでいったんだよ?」

俺は溜息を吐くのも馬鹿馬鹿しくなっていた。男っつーのは阿呆ばっかりだな。
答えるのが急にめんどくさくなった俺はどうしたものかと考えてみたが、ちょうど
集合をかける声に助けられ、五十嵐のシカトかよという言葉を後ろに聞きながら監督の方へ走っていった。

「俺はあいつと付き合ったことなんかねーよ」







 さて、さも十年来の友のように流泉寺 青という女について話したが、仲良くなったのは今年からだ。
水しか出ない安いシャワールームで一通り汗を流し落としてから制服に着替える。
迷ったがネクタイは鞄の中にしまっておいた。

クラス替えをして一ヶ月。特別新しく友達を作ろうという考えがなかった俺は主にサッカー部の
愛すべき馬鹿とも言える連中とつるんでいた。お年頃な高校二年生だったし、昨年はほとんど
女子運に恵まれなかったため今年こそは彼女を作りたいという考えが無かったといったら嘘になる。
今年のクラスは女子の顔レベルでいくとかなり高い方なのだ。何せ美人3トップが皆集まってるんだからな。
だがそういう考えは一週間経つとほぼ消えるのである。結果から言うと3トップは皆奇人でなかなか
近寄れなかったというわけだ。そこを頑張って柄にもない質面倒臭いことをするより楽な奴らと一緒にいた方が楽しい。
偏にそう感じたわけだ。だから俺は一年のときと全く変わり栄えない生活をしていた。

香坂は確かに人当たりが良く、人望もあるのだが、吉永榎紀というちまっとした可愛らしい女と
あるかどうかすら疑わしい「かるた部」なんかに入っているらしいし、それに俺に似た平々凡々な空気を持つ浅野という男が
去年から香坂の隣にいるらしい。だいたい俺は人の気のようなものを感じるのが得意なようで去年の文化祭で
香坂の得体の知れない裏の顔みたいなものを察知してしまったことがあるんだ。

都築に関しては好意を持ってる人間のほうが少ないんじゃあないだろうか。
木で鼻をくくったような性格で、話掛けてもたいてい一言二言で片付けられる。
休み時間は決まって音楽を聴きながら机に突っ伏している。一度傍を通った時にわかったのだが、
こいつのiPodの音量は半端じゃない。あんな喧騒の中歌詞を薄っすら取れるってのはもう耳がおかしくなっているに違いない。
とにかく都築は完全に人と一線を引いている。だからもう何も言うまい。
まぁ俺はそんな風に割り切れる奴なんてなかなかいないし、その一匹狼的なところが良いと思うんだけどな。
ハルの奇行は先程述べた通りだ。才色兼備の完璧な奴なんてそうそういないってこった。


俺はロッカーを閉める。「マックでも行こうぜ」と仲間に言われたのだが、今はそんな気分じゃない。
早くこの部室を出たいこともあり断って俺は男臭い部室をいそいそと出た。
ありがちな話だが、帰路につこうとした俺の目の前には五十嵐とハルが並んで歩いていたので
全く、なんで俺がこう気を回さなきゃならないんだと思いながらも奴らの逆を行き遠回りして駅へ向かった。





先程の話の続きをしよう。ハルが話しかけてきたのは唐突だった。ほんの二ヶ月前の話。
ちょうどゴールデンウィークが終わった頃だったな。といっても、明確なきっかけみたいなものがあったとは思わない。

ちなみにこの当時ハルが付き合っていたのは9組ら辺の男だったな。どうでもいいか。
ある日の昼休み、飯を食べ終わって五十嵐たちにサッカーやろうぜと誘われたが飯の後すぐの運動を好まない俺は断った。
そして心地の悪い机という硬い板で寝る体勢に入ろうとした時、突然目の前にハルが来て名前を呼ばれ話しかけられたのだ。
俺が驚きながら何だと聞くと、サッカー部ってマネージャーとか募集してるのかと尋ねてきた。
それまで喋ったこともなかったし、だいたいあっちは俺の存在になんか気付いていないと思っていたから
俺がサッカー部だということを知っていることにまず吃驚した。

「え?あ、ああ多分、えーと、今新入生の子が一人いるだけだから、募集っていうか、うん、募集なのかな」

情けないことに、二年にあがってほとんど女の子と喋っていなかった俺は舌が上手く回らなかった。
ちゃらちゃら女の子達と喋らないような位置付けにいた俺はいつの間にか自分でも硬派なイメージを
作りたがっていたのだが明らかに動揺していることがバレバレである。情けない。
そして同時にハルがサッカーに興味があるということを知り歓喜した。何故なら可愛いからである。
勿論この時ハルが俺に話しかけてきたってことは、と、いらん妄想をしたことも事実。思春期の性だろう。

「ほんとに?今からでも大丈夫?」
「ああ。サッカー好きなのか?」
「最近興味持ち始めて。ほら、今年ワールドカップあるでしょう?」
「うん」
「それでさ、基本的なサッカーの知識つけたいなぁって思って。」
「え、どういうこと?」
「こっちも女の子じゃない?だからちょっと見るのに慣れると選手の顔ばっか追っちゃうのよ。
でもそれって選手からしてみれば本分忘れられてるってことだがら、良い気分はしないでしょ。それはなんか
よくないって思ったわけ。だからより良くワールドカップを見られるように、その期間勉強したいんだけど」

ほぼ初めての会話でマシンガントークされたことに圧倒されてか、よくわからない自論を持ち出されてなんと答えていいか
わからなくなったのか、その辺の記憶は曖昧だが、とにかく俺は話を聞きその日のうちに顧問の所へ連れていった。
きっかけと言えば多分この辺りだ。仲良くなったのはまた別の話である。後にワールドカップが終わってから
ハルは急にサッカーに興味がなくなったらしく突然部活もやめた。なんて勝手な奴だ。
しかしながら、馬が合ったんだろう、それから俺達は昔からお互いを知り尽くしているような仲になった。



奴は男癖が悪かった。周りからすればそう見えるだろう。俺と仲良くなってからの短期間でも彼氏が二度、三度変わっている。
俺もこんなに仲良くなかったらそう思っていただろうし硬派気取りだった俺はなんてビッチだ、なんて悪口を
叩いていたかもしれない。これは願望なのかもしれないし俺の偏見でもあるのだが、
奴は何か考えがあってそういうフリをしているんだと思う。未だにその意図は読めていないが。
もしかしたらいつもの意味なしの興味本位なのかもしれないし。

しかし俺には確信があった。それはその他大勢からは見えないだろう表情である。俺には見えてしまうのだ。
あの寂しそうな表情が。

ハルは自分からは告白をしたことがなかった。誰かが好きという事も聞いたことがなかった。
ただ、付き合う男は一応選んでいるらしく付き合ったからにはとりあえず好きにはなるらしいし、
本人も楽しそうにそいつらの話をしていたから、俺は何も言わなかった。
そして俺と同じサッカー部でそれなりに仲の良い五十嵐に青は二週間前告られて現在付き合っている。俺は何も言わない。

いつもと違う帰り道は通らないだけあって色々な発見があったのだが、そんなのに気はとられなかった。
夕方のじめっとした風に吹かれてせっかくシャワーで流した肌もまたべた付くような気がした。気持ちが拭えない。
俺がハルを好きにならないはずがなかった。典型美人の香坂よりも、高嶺の花の都築よりも、ハルがよかった。







 「蒼汰、明日のパン忘れちゃったから買ってきて」という母の声に便乗して姉がアイスと言うと
更に妹がプリンと声を上げる。あたし駅前の250円プリンしか食べないからなんて、ませた小学生だ。
そして誰も金を出してくれる気はないらしい。俺も溜息一つ漏らさず聞くことにもう慣れてしまったようだ。

男尊女卑なんて言葉が廃れつつある現代、この麻戸家は悲しいことに絶対数の多い女性の権力が強い。
気弱とまではいかないが、共働きとなったおかげで父も大黒柱的存在ではなくなっていた。
俺はベッドで寝転びながらPSPで千人斬りを達成したところだったけれど、争い事を好まない性格は
その父親譲りのようで今日も和平主義の奴隷として女達要望を聞き届けるのであった。
携帯とサイフだけ持つと俺は疲れた体を自転車に乗せ、人気の少ない住宅街をへろへろ走っていった。


一番近くの中小チェーン店スーパーでいつもの食パンと100円アイスを言われた通りごっそり買って、
プリンなんざプッチンプリンで充分だろうと思いながらもわざわざ遠回りして駅前の高いプリンを購入した。
こうして少ない小遣いの何割かは毎月持っていかれるのである。
全く、なんて優しいんだ俺は。だが女達に諦めその代わりにそう思うことにしていた自分に呆れていた。
自転車のチェーンを外し跨って先程のゲームの続きについて長考に入ろうとした、ちょうどその時だった。
テロリストと戦うどこぞの組織の内線音がなる。これは俺のサッカー部専用の着信音だ。
電子音を響かせる携帯を尻ポケットから取り出してディスプレイを確認する。
そこには五十嵐と出ていた、この忙しいときにと若干めんどくさがりながら耳にあてる。

はいはいと出た俺は次の瞬間のことを後にあまり覚えていなかった。しかし何も考えずとも行動は迅速で足が動いていた。
ただその時の夕焼けがあまりにも印象的で俺はこの景色を一生忘れないだろうと思った。









執着心のない俺がこんなにも一心不乱に他人を考えることがあっただろうか。俺はただ走る。
逸る気持ちを心の中で貧乏ゆすりをして抑えながら、言われた部屋にまっしぐら。
ナース属性がある俺でもこの時ばかりはそんなことに目が眩んだりはしなかった。とにかく、目指す。
病棟独特の静けさや冷たい匂いが俺は嫌いだった。何もかも真っ白で脳が溶かされそうになる。
エレベーターの中だけがやけに落ち着く。自分の心臓の音が聞こえてたまらない。
5の数字が点灯してドアが開くと、言われた病室の数字はすぐ見つかった。目の前だった。

部屋番号を再度確認して、開放された扉の内に踏み込む。
すぐにでも声を掛けようとしたが、そこには半身起き上がって窓の外遠くを眺める少女がいたのだ。
その姿は生唾を飲み込むほど美しくて、儚かった。
元々冗談みたいに白い肌をもった奴だから夕日が吸い込んでしまうんじゃないかと思った。
一瞬だったかもしれないし、数分、数十分だったかもしれない。完全に見入っていた俺が現実に戻るのは
少し時間がかかった。西日が目に入ってそのことにやっと気付く。


「よう」
「あれ、蒼汰来てたの」
「ほんとにお前は……何をしてんだよ」

女子が羨む透き通った肌には大きなガーゼが当てられており、頭から左目にかけては包帯で冗談みたいに
ぐるぐる巻きつけられている。左腕から肘までも中二くらいの男子が好きそうな感じで同じ白い包帯で巻かれている。

彼女は事故に遭っていた。五十嵐からの電話でだいたいは状況がわかっている。
用事が済んで今日はもう帰ろうと別れた直後だったらしい。五十嵐が振り返った時には勢い付いたセダンが
車道から外れて大きな音を出していた。周りの悲鳴を掻き分け覗き込むと、先程まで一緒にいた女が横たえていたらしい。
その時の動揺っぷりは電話越しにもちゃんと伝わっていた。

「ホント。自分でもびっくりしちゃった。」
「それで済んだからいいけどさ」

俺はベッド近くにあった小さな椅子をひっぱり腰掛ける。
四人部屋だったが他には誰も入院していないようで隔てるためのカーテンも意味がなかった。

「そういえば五十嵐は?」
「まだいるって言ってくれたんだけどバイトだって言ってたから帰した」
「そっか。」

ねっとりした風が窓から吹き込み肌を包み込む。カラスの鳴き声が似合う時間帯だ。
ハルは再び電信柱の遠くを見つめる。連れて俺もそちらを見るがそれより青の横顔が気になった。
灰色の瞳は夕陽を反射して褐色めいている。まるで憂いを帯びているかのように。

真実は知らない。だが事故の瞬間がふっと頭の中に浮かんでくる。ふわふわしている奴だがボケではない。天然でもない。
確かに奇抜で馬鹿なことばかりやっているがどちらかというと理性的かつ理論的な真面目な奴なのだ。
妄想だらけの頭だが、俺は普段のままのハルが車道に突っ込んでいく姿は想像できなかったし、
かと言って車側の信号無視の状況も何故か考えられなかった。

俺がどうしても行き着く先は浮き足だったハルの信号無視だった。

俺が見とれているとハルの小さな唇が開く。口を動かしているが息を漏らすように小さな声は、
ぼんやりした頭の今の俺には聞こえなかった。そしてそれは現実に戻されると同時にだんだんと聞こえてくる。

「……事故った時に意識はあったの。朦朧としてたけど。」

瞳が一度閉じられ開いた時には学校でよく見る笑顔をするハルがいた。可愛いとは思う。
だが無理して作る笑顔なんて凡庸な表現はしたくないからこう言っておこう。俺はこの顔は好きじゃない。

「痛みとかは全然感じなかったんだけどね!でもよく死ぬ間際に走馬灯体験をするって言うじゃない?アレ、本当なのね。」

笑いかけてくるハルに、俺は目を合わせなかった。ハルは俺を好きじゃない。それはわかってる。わかってるんだ。
自惚れは随分昔に捨てた。一線越えたらこのままじゃいられなくなるとかそういう青臭いことでもない。

「なんか人生大切にするべきだよね。後悔とか懺悔とか言いたいこととか、そういうのがいっぱい出てきちゃって」

俺だけが感傷的になるのはずるい。必死に隠す心はお互い同じだ。
髪が揺れる。柔らかい髪に触れて肌に触れて全部手に入れて壊してしまいたかった。でもそんな勇気はない。情けなくなる。
ハルの言葉を目で遮った。大きく見開かれた瞳が普段の何倍も美しく見えた。


「俺に会いたい、とかは?」


妹用だったプリンをハルに渡し、俺は立ち上がった。
ふざけんな。冗談じゃねぇ。俺は追いかけるより追いかけられたいタイプなんだ。
真っ白な病室を飛び出し、俺は疾走した。








           影に踏まれて遠くなる










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090304